昭和43年7月26日 朝の御理解

信心の工夫



X 御理解六十七節「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」

 「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬぞ。めいめいにしておらねば長う続かぬぞ。」 ここの焦点を長う続かぬとこう言うておられますから、いけないとゆう事がいえます。長う続く為にめいめい人ではない自分自身でなければわからない事がある。例えば体の調子だって自分が元気だからと云うて、人も皆元気とは限らない。頭が痛い人もおれば腹が痛い人もおる。それを、強引に自分がどうでもないからと云うてさぁ信心せよと云うても無理な話。それは、よしできてもそれでは長う続かぬ。そこのところをめいめいにしておらねば、長う続かぬ。それでもお互い信心が長う続かねがならない。それに一番大事な事は常平生の信心、めいめいが常平生の信心に心掛けなければならない。
 昨日ある方がこうゆうお届けをされた。ある一つの問答で、自分を軽蔑した様な事を云うた。だから、ちょっとカチッときた。その時に云うて返そうかと思うたが、こうゆう時に、いわずに辛抱する事が馬鹿と阿呆になる事だろうか。それとも、云うたあちらが間違うとるのだろうから、云うた方がよいのだろうか、どちらが本当なのだろうかと尋ねるのである。皆さんもそうゆう事に直面する事があるだろうと思います。そこで私は申しました。それは云う事もおかげである。けれども、自分に感情が無い時ではなくて相手に感情が無い時、話さなければならない。相手がなにかその人の心の中に、一矢むくいたいといった様な気持ちで云っておるのを、こちらもそれをうかつに受けてしまう。そこで「カチッカチッ」ときたわけ。だから、相手にも感情の無い時に云える、そうゆうわけで、そこのところが信心辛抱。相手もイライラしながら云っておるのである。相手が自分に一矢報いたい。そうゆう、やはり本当にむこうにイライラさせたい原因が、こちらにある事も反省しなければならない。その事じたいは相手が皮肉かもしれない、又は一矢報いる為に云ったかもしれない。その時の理屈は、その人の云うのが正しいかもしれんが、自分に感情のある時は別だけれども、相手に感情がある時、云うちゃいけん。そこでそれがあくる日になる。又、日を追うて二日、三日になった。実際は、それは云わんで済む事なんです。例えば相手にもこちらにも感情がなくなった時、「ああ云わんでよかった」とゆう事になるのである、云いたい事は、「明日云え」とゆう訳なのである。そうゆう生き方を致しますとです、信心が長う続きます。いわゆる信心はめいめい、人と自分は同じではないとゆう事。
 昨夜、家内が子供達が云う事を聞かん「あなたからも云うてくれ」とゆうのである。けれども云うて聞かないものに、云うてどうするのか。昨日の昼の御理解を云っているのです。「形をみるな形をみらずに実相をしれ」どうしてゆう事を聞かないのかとゆうて怒らずに、ゆう事を聞かせきらないのだから、神様におすがりするより他にないじゃないか。そこに自分のゆう事を聞くよりも神様のゆう事を聞くような子供なれば、かえってその方がおかげなんだと実例をもって私申しました。「そうそうあなたはそれだけわかっちゃからいいけども、私みたいな無信心ものは、そんなわけにはいかん」とこう。その実相を知ろうとつとめる事。これは、豊かとか寛大といったようなものではない。その実相を知ろうとつとめる事なんだ。本当の事を知ろうとする。それは、子供ではなくて神様が子供の上にどの様な願いを持ってどの様に使おうと思うておられるか分からんものを、親が勝手に使おうとしておる。だから、親が使おうとゆう気持ちを捨てなければいけん。そして、その向こうに神様の本当の御神意が現れてくる様になる。
 六十八節に「神参りするに、雨が降るから風が吹くから偉いと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」とおっしゃる。これはここの場合は、辛抱とゆう事じゃない。云わずに辛抱すると云うのじゃない。もう云わんで済む様になるのである。又は、その事をとおして、その実相を知るのである、だから云うた方が馬鹿らしいと云うのではなくて、もう云うたら勿体ない。云うたらおそれ多い、そうゆう事になる。そうゆう信心をしていきよらんと信心が長う続かん。そうゆう信心をさせていただいても、けれども今日私が申しますのは、常平生の信心がでけておらんとそうゆう風にはなれない。思えない。実相を追求すると云う、その追求心も起こらない。又、相手に感情があるかないか、それも見取る事すらも出来ない。かぁときたらかぁときたもの同士でカチカチやってしまう。常平生の信心だから、ここではもう理性なんですよね、理性的な信心とでも申しましょうか、ただ辛抱するとゆうのじゃない・辛抱しとるうちに身に徳がつくから、これは歯痒いけれども辛抱しとくとゆうのじゃない。これはめいめいのとゆうところである。信心はめいめにしておらねば、又長う続く為に私共はそうゆう生き方にならしてもらねばならぬ。私は今朝方、お夢の中にそうゆう意味で失敗をした事がある。どうも、御本部で試験を受けておる様である。お夢の中の教官は違った、それからは次の試験をされるのをみておられるのが教官である。大変難しい様である。けれども、実際は答案用紙を見たら見易いのである。ところが、試験管の態度が実に横着である。横平である。もうそりくりかえっておる。それで、私が心の中でモヤモヤしとる。今日はいっちょこん奴を馬鹿にしてやるとゆう様な気持ちでですね、こちらが思っている訳です。ところがそれを見ぬいたのかどうかしらんけれども、「君はこちらの方のをしろ」と云う。かた仮名まじりでいろいろ書いてあるのを読まんならんごとなっとる。ところが、それも私には、み易う出来る。それで相手をからかっちゃえと思う、ですから漢字のところだけは、わざと読まずに片仮名の所だけばとんで読みよる。もう明らかに相手を馬鹿にしとる。相手の人が試験管も教官もカンカンに怒っとる所です。そして、お前は不合格と云う。そらそうでしょう。漢字はいっちょん読みよらんのですけん。どうも人間とゆうのは威張られたり、部下とか目下とゆう者には優しくしたいけれども、強い者にはむかっていきたいとゆう気持ちがあるのですね。それが反対の人もありますね。弱い者は、いじめて上の方にはペコペコするとゆうのがあります。だから、これはいけません、と云うてそんならそう弱気には反発をするとゆうのもよくない。いわゆる私は神様に試験をされて見事に失敗をしたとゆう感じが致します。
 昨日の研修会の時もこうゆう事があったんですが、神様は私共が信心しておるとどうしてもお試しをなされねばならない責任を感じなさると云うか、神様がその必要を感じなさる訳です。おかげをやらねばならんとゆうその責任を感じなされば感じなさる程、その必要を感じなさるのです。ですから、「信心が段々分かってくると必ずお試しがありますよ、用心なされよ」と神様はおっしゃてあります様に、それは神様が必要を感じられておる訳です。ですから、私共にはそうゆう神様が、必要を感じて試験問題を出して下さるのであるから、私共が素直にそれを受ける。それが素直に受ける事は出来なくてもそれを受ける態度が大事。同時にそれに合格するおかげを頂かしてもらう。神様のおかげを下さろうとする前にお試しがある。だから、おかげを下さろうとする。おかげを頂かせてやろうと思われる程その必要を感じなさる訳ですから、私共が常平生の信心ができておらなければいけないかが分かる。相手がどうゆう様に弱々しゅうでろうが、相手がどうゆう風にたけだけしゅうでろうが、そうゆう様な事で自分の態度が狂う様であってはならない。私がお夢の中で失敗した様に。ですから、どうゆう問題、どうゆう事、そんなら私を子供なら子供をとおしてお試しを下さってあるのやら分からん。それが出来んから、いつもいつも同じ様な問題でいつもいつもお試しを受けておる訳なんです。そこのところが見事にスッーと出来ていくおかげをいただいたらいつも同じ様な事でお試しがあるはずがない。
 現在繁昌しとるからと云うて、その繁昌がいつ迄続くと誰も約束してない。いつ衰退するやら、いつ繁昌がとまるやら分からない。現在地に落ちたとゆう様な難儀をしておっても、いつ迄も貧乏しますと云うて証文を書いておる訳ではない。だから、いつも信心が釘着けではない。何事もとここではおっしゃてある。何事もだから釘着けではないと云うのである。もう実を云うたら、じーっとしておる時は登っとらんで停滞しておる時。ですから、いつも前進前進とゆう進み方をする為にも各自めいめいに信心をしておらねばならぬ。例えば、頭の痛い人もあれば、腹の痛い人もあるかもしれん。自分がどうもないからと云うて皆んもそうゆう風に思う訳にはいけん。だから、めいめいにしておらねば長う続かぬ。そこで、長う続く為にもお互いが常平生の信心をしっかりさせて頂く。いつ例えばお試しがあってもお試しを実意丁寧の態度をもって、それを受けてゆけれるゆとりとゆうか、そうゆう状態を心の中に頂いておらなければならぬ。
 そうすると、例えば相手の感情を見る事も出来る。自分が冷静になる事も出来る。事の実相とゆうか、実態も極めるゆとりが出来る。どうしてゆう事を聞かないのか、それは形である。形を見ると腹が立つ。けれども、その実相を知るとお礼を申し上げねばならぬ事が分かる。そこには、辛抱しなければと云う辛抱はしなくても、それを平生で受けていけれる。いやお礼を申し上げておられる。そうゆう信心でなからねば辛抱辛抱と云うても、やはり長う続かぬ。どうでも長う続かして頂く為に、お互いが工夫が必要である。その工夫のゆうなら一面を今日皆さんに聞いて頂いたのです。
 お互いの信心がめいめいにしておらねば長う続かぬとおおせられる。長う続く為に、信心の工夫がいる。その工夫の中にお試し、人間関係の事、感情問題の事、又は、事の事態とゆうもののその実相とゆうものを追求する事等を申しました。どうぞ。